コヤナギ的幸福論 #19

先に言い訳しておくと、いまとても酔っていて、少しでも気をゆるめたら朝になっていそうな状態で書き始めているので、いいたいことがちゃんとまとめられるきがしないけど、「一日一投稿」に甘えて書いている、と前置きする。

自分の幸せがなにか知っていますか?

人の評価軸って想像以上に対外的な影響を受けやすく、本当は性質的に欲しくないものでも、身近にそれを手に入れて満足する人を見ると欲しくなったりすることことがあります。

コレが積み重なっていくと、意識せず大勢が欲しがっているものが幸せになるための条件だと勘違いしてしまって、本当は欲しくもないものに労力をはらってしまうことに貴重な時間を費やしてしまいがちです。

生まれ、育ち、環境。
教育、影響、憧れ。

人は様々な影響を受けながら価値観を構築していきます。
「正解」なんてこの世になく、「これされやれば人生あがり=幸せ」なんてないと頭で分かっていたのだとしても、それを自分の幸福論に当てはめられないものだと思います。

生まれながらにして性質というものはあり、みんなの幸せが自分の幸せでないって、頭では分かっているはずなのに、人生の正解の教典を信じてステレオタイプの幸せを求めがちっていうか、とらわれがちっていうか。

逆に聞きたいのだけれど、ステレオタイプな幸せをつかんでいる人に会ったことがあるのですか、と思う。

それが自分の両親だというのならば、子どもに見せてこなかった姿を想像したことがありますか、と思う。

人生の正解をもっている「大人」なんて例外なくいなくて、意識するべきは「三つ子の魂100までも」だ。
自分に当てはめて考えたら分かりやすいと思う。
「完全体としての大人」なんてこの世にいないのだ、妖精なのだ、と。

であるならば。
自分の性質に合った幸せを見つめる必要があると思う。
譲れないことはなんなのか。
それが見極められれば、それ以外を手放せる。
自分ひとりにカスタマイズされた「幸せの条件」を見出しさえすれば、他人の幸せがうらやましいものではなくなり、100%祝福出来る。

つかんでこなかった幸せは望んでいなかったのだ。
幸せは「それぞ」というもの以外を手放したときに得られるものだと思うのだ。

だからどうぞ、常識や周りの目に惑わされずに、自分だけの幸せを見つけてみよう。
そして譲れないこと以外はどんどん譲ってしまおう。
持たないことで得られることは計り知れないぬらいあるんだ。
幼少体験なんて関係ない。
いまの自分がどうありたいか。

それだけを考えて、わがままに、貪欲に、欲しいものを欲しいと声高らかに宣言しよう。

 幸せを得るための条件は「欲しくもないことを欲しがらないことだ。

一番大切なこと以外はゆずってしまう。
そこに幸せがあると思ってる。

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