わたしにとって命取りで罪深いこと

寝付けないからオウンドでも書こう。

心の中に複数のトピックスがあると、片づかなくて心がざわつく。特に自分はもちろん、誰かの失態をみるのもざわつく。なぜなんだろう。

自分の評価にはあまり興味がなくて、役に立ってるかとか、お天道さまの下で仁王立ちできるかとか、そういうことは気にするけど、すべてを知り得ない他人の評価が気にならなくなった。
たぶん前からではなく、あるところから気にならなくなった。
それは、他人の評価がなんの指標にならないと知ったから。

人間には目の前の出来事を、過去の記憶や経験と照らし合わせる本能があるそうだ。

あれと同じ、これと違う。また、過去の出来事を正解と不正解に振り分けて記憶するのも当然で、結果、目にうつるすべてのものを「評価」してしまうのは当然の本能。
しかし本能はただの生理的衝動であって正しさの根拠にはならない。

記憶は変質して残すことが出来るし、事例がひとつしかない出来事でもその人にとってはそれが100%の判断基準になり、そのうえ振動の影響を受ける集団メトロノームみたいに分かる分かると周りの影響をばっちり受け、道を尋ねてスーツの男を目印にされるくらいあやふやな指針を左折と聞かされるようなものだ。

だからお天道さまに立つ迎える心清さと潔さを心がけていれば、人の言葉に踊らされず、芯の通った振る舞いが出来るんじゃないかって信じてる。

でね、他人なのにも関わらず心がざわつくひとってね、芯がぶれぶれなのよ。

狭い見識で「常識」を説いたり、難解な価値観を「真実」だと思って疑っていなかったり、「正義」の名分であればナイフを突き刺してもいいと思っていたり。

でもそれも、わたしにはなにも関わり合いのないこと。
気に留めるいわれもない。
でもなぜか気になる、目にとまる。

そうたぶんこれは同属嫌悪。
こころのリトマス紙が真っ黒に酸化してる。
その存在が許せなくてざわめくんだ。

でも待てよ、と。
そもそも「わたし」、出来た人間じゃないじゃん、と。
真っ黒で当然だったじゃん、とふと思い出した。
ほら記憶は都合がいい。

わたしも同じだ。
見識が狭くて、独りよがりで、正義の名に喧嘩を仕掛けたい。
でもそんな気持ちは最低だ。
そう、わたしはダメなやつなんだった。

そう思い出し、調子に乗って浮かび上がりそうな両足を地面に接着する。
謙虚に低頭に、っていうかまじて低脳なんだよ忘れんな。

年をとって経験を積むと気持ちがおごる。
それは許容の硬化で、ものを書いて生きていきたいなら致命傷だ。
バカで良いから忘れるな。

ああ、しかし太陽が見たいな。
日照不足だよ。

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