羨望と虚像と明るい未来
うらやましがられることが、
極端に嫌いだった。
当たっていても的外れでも、とにかく
「いいなぁ」といわれると、なんともいえない暗雲で胸がいっぱいになった。
褒められるのはうれしいし、いつでもおどろかれたい。
でもどうしてか、「いいなぁ」は受け入れられなかった。
「選択をしている」という自覚がある。
わたしはひとりしかいなくて、からだも頭もひとつしかない。
だから、Aを選んだらBは選べない。
具体的なところでいうと、
憧れのベンチャー企業で必死に仕事を覚えているあいだは、スノボ旅行には行けなし、
Photoshopと独学で格闘してるときは、合コンには行けない。
ライターの教室に通ったら、原宿へ通う時間はないし、
Macをローンで買ったら、ブランド品の洋服は買えない。
「いいなぁ」といわれて腹を立てていたのは、そんな風にして、好きなことに向かって邁進していても、ガマンして「選択してる」という自覚があったからだと思う。
特に若い頃は強く思っていた。
「いいなぁ」といわれると、とたんに線を引いて「分かっていない人」と心の中でレッテルを貼ってしまうくらい。
でも、ここ数年、変化があった。
うらやましがられることに、前ほど抵抗がなくなった。
年を経てサービス精神がふくらみ、楽しませたい、という気持ちが強くなったからだと思う。
「楽しませる」を突き詰めると、リアリティは大切だけど真実はそんなに重要じゃないと思えた。
ヘタな作り話はただのうそだけど、リアリティのあるドラマチックな作り話なら、それはエンターテイメントなのだ。
そう、エンターテイメントは楽しい。
なら、それでいいじゃない。
「いいなぁ」の言葉には、「うらやむ結果に到達するまでのプロセスが見えていない」という意味が隠れていると思う。
プロセスとはつまり苦労だ。
七転八倒して、もんどり打って、下唇をかみしめながら、椅子に宿泊して机に向かい続ける日々のことだ。
だから「いいなあ」と言われると、プロセスを知らせたくなって、そのプロセスを選んでこなかったその人の日々を、わたしもまた「いいなあ」と思ったのだと思う。
でも、ひとたび「楽しませよう」と思うと真実なんてどうでも良くなる。
たとえ本当は「いいなあ」に値しない事柄だとしても、「いいなあ」には夢がある。
「いいなあ」その人が何かしらを投影して、ひとつの価値を見出したということでもある。
「いいなあ」は必ずしも「欲しい」とは限らないことも、やっと分かってきた。喜ばせようと、思ってもいないのに羨んでみせる、というリップサービスの可能性も、本当に今頃分かってきた。
いまは思う。
ひとの想いは現実になる。
だから、たとえ事実がどうであれ、みんなが思えばひっぱられるかたちでそれに成るのではないか。
「いいなあ」がわたしの未来を作ってくれるかもしれない。
そう思うと、「いいなあ」も悪くない。
いや、おもしろい。
選択の結果が出てくる年代だからこそ、これからはありがたく「いいなあ」を拝受したい。
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