ファンだと言って近づいてくる人はいつもファンではなかった。

ずぅっと、「自分はまだ見つかっていない」んだと思っていた。

出会う人、出会う人に見くびられ、誤認されて来たのだと思っていた。

ひねくれすぎだという指摘を恐れずに言えば、

わたしのファンだといって近づいてくる人はいつもファンではなかった。
ファンだと言って近づくことで、「たいしたことない」わたしの「上手くやっている裏技」を覗いて盗もうと目をギラつかせていた。

「すごいですね」と言いながら目からは(て言ったら嬉しいんでしょ)と注釈がついていた。


だからいつも悔しくて、いつか正当に評価されて、「この曇り眼が」と見返したかった。

時間が経って露出や接触が増えれば、当然認知も上がって、なんなら技術も上がって「正当な評価」を受けていいことしか起こらない信じていた。

でも。

人生の折り返し地点が見えてきたある日、もしかして逆なんじゃないかと思った。

いつも過大評価されていたのかも知れないと考えてみた。
メディアに取り上げられなくたって、すごい人は世の中にたくさんいた。
上手い人も、味がある人も、優しい人も、個性的な人も、うんざりするぐらいたくさんいた。
そこまでの腕がありながら、埋もれていることが腹立たしく、わたしなんかが少しでも露出するのが浅ましいくらい、わたしは及ばない。

だからわたしに何か裏があると潜入調査にやってくるファンは正しかったのだ。

そしてことあるごとに取り上げてくれた人たちの狙いは、わたしが考えているような評価軸ではなかった。
与えられた役をずっと理解出来てなかったんだ。

自分の配役は未だに分からないけれど、世の中の審美眼は間違っていなかったと考えると、ストレスは中和した。

わたしはわたしが考えているほど長けていないし、事実よりもうまくいっているように思われている。

つまり、結果としてブランディングとしてはとてもうまく行ってるんじゃないだろうか。

それを踏まえて、これからの自分の立ち回りを逆算できたらいいんだけど、あいにくそれは向いてない。
背伸びすることもへつらうことも、意図して演出することはまったく出来ない。(23才のころのイラストレーター時代に不思議ちゃんを装ってくじけた)

演技は出来ない。
評価は人任せ。

それなら、やりたいようにやり、褒められていい気になってサービス精神が続く限りは期待に応え、重くなったらサッと肩をすかし、思うままにあればいいかと。

はて、いままでとなにが違うんだろう。




写真はねぶたと張り合う負けず嫌いのわたし。

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